演劇の歴史をおさらいしておくと、最初に歌舞伎なんかの「旧劇」っていうのがあったとして、それに反発して「新派劇」が生まれたんでしょ? さらにそれに反発して生まれたのが「新劇」で、僕が"青春の誤解"から演劇をはじめようって思ったころには、「新劇」から小劇場中心の「アングラ演劇」ってのができてたころでした。で、いろいろあって1976年に東京乾電池を旗揚げするわけだけど、それも当時所属していた自由劇場がやっていたことに反発して始めたんだから、人間というのは現状に満足しない生き物だというのがよくわかるよね(笑)。
自由劇場といえばアングラ演劇の代表的な劇団ですけど、楽器を使ってジャズを演奏してみたり、都会的でオシャレな雰囲気の芝居が多かったんです。その反動で、泥臭くてくだらない、お笑い芝居をやろうって思ったわけですが、若いだけが取り柄のバカが集まったようなものですから、すぐに行き詰まっちゃいますよ。若いってことは、バカだってことですからね。
実際、その通りになりました。
ところが、渋谷のジァン・ジァンで公演をはじめて4回目くらいだったかな。そのころからダーッと劇団の人気があがってきて、小屋がお客さんでいっぱいになったんです。いや、それはそれでいいことなんですが、僕は逆に「これはダメだな」と思いました。
というのも、その人気っていうのがあまりにすごかっただけに、こっちが何かやる前から笑いが起こったりするんです。お客っていうのは怖い存在ですよ。そうやってチヤホヤしてくれてるうちはいいんだけど、ある日を境にそっぽを向くからね。登らせたハシゴを取っぱらって、「さて、どうやって降りるのかな」なんて、ニヤニヤ笑って見てるような残酷なところがあるんです。
それで、劇団の人気が一種のファッションみたいになってる状況に危機感を感じた僕は、それまでやっていたこととまったく別のことをやろうと思い立ったんです。劇団に岩松(了)さんという大変優秀な人がいまして、ふたりで「台本を書こう」という結論に至りました。ホラ、東京乾電池というのは結成当初、台本なしで即興で芝居を作っていたんです。その反対をやろうとしたんですね。
芝居の内容も「とにかく笑いどころが一切ない芝居をやろう」とか、「最初から最後までシーンとした芝居にしよう」とか、「途中でお客が帰っちゃうっていうのもいいんじゃない」なんて盛り上がって。
その最初の作品が1989年に下北沢の本多劇場でやった『お茶と説教』です。
うれしかったですね。
だって、目の前のお客が戸惑って、スーッと舞台から引いていくのがわかるんです。そのうち、こっくりこっくり舟を漕ぐ人なんかも出始めたりして。ザマーミロだよね。
だけど、こっちのたくらみをわかる人もちゃんといて、クスクスッ、クスクスッて笑いが起こるんです。それはすごく大きな手応えでしたね。
だけど、そういう芝居もその後、「静かな演劇」なんて感じで、ファッションみたいに言われるようになっていくところがまた怖いんだよね。
だからお客って、僕にとっては本当に怖いんです。できれば劇場に入れないほうがいい。いや、来てくれないと困ることは困るんだけど、お客なしで芝居ができたらいいなって、本心からそう思いましたね。
90年代以降は、チェーホフの4大劇を上演したり、日本映画の名作を舞台化したり、創立25周年の2001年にはシェイクスピア の『夏の夜の夢』を劇団員総出演で上演したりしてきました。
チェーホフをやろうっていうのは、さっきの岩松さんと考えたことと同じような発想で、もともと好きな作家ではあったんだけど、まさか自分たちが上演することになるとは思ってもいませんでした。
でもね、改めて台本を読んでみると面白いんです。
最初にやったのは91年の「かもめ」。
はじめにマーシャって女が舞台に出てくるんです。で、メドヴェージェンコって男が追いかけてくる。
「あなたはいつも黒い服を着ていますが、どういうわけですか?」って訊くと、マーシャはこう答えるんです。
「我が人生の喪服ですの。だって私、不幸せな女ですもの」って。
もう、おっかしくてね(笑)。
ものすごく残酷な感じがするのね。チェーホフって。
まぁ、ともかく僕が劇団でやってきたことって、こんな感じですよ。気がつけば今年で32年。僕を含めて3人で始めた劇団員が、今や60人近くになっちゃってるってことは不思議なもんで、だけどそこまで続けよう、ってやり続けてきたことでもないんです。気がついたら、そういう風になっちゃってた。続けちゃったんだねぇ。なんだかねぇ、って感じですよ。ええ、ホントに。
取材・文/ボブ内藤(方南ぐみ) 撮影/石井和広(TFK)












