- 島田 歌穂(しまだ・かほ)
- 東京生まれ。74年子役デビュー。82年ミュージカル「シンデレラ」で初舞台。その後、「レ・ミゼラブル」のエポニーヌ役に抜擢される。他にも「ウエスト サイド ストーリー」「飢餓海峡」「ベガーズ・オペラ」など多数出演。第41回紀伊國屋演劇賞個人賞、第14回読売演劇大賞女優賞など、受賞も多数。現在、大阪芸術大学教授であり、若き表現者達の育成にも努めている。
音楽家の父と、ジャズ歌手の母の間に生まれましたから、音楽が空気のように流れている家庭で育ったんです。4才でバレエを習い始め、父が家で歌を教えていましたから、ごく自然に歌も踊りも大好きになり、童謡よりも、耳で聴いためちゃくちゃな英語でジャズを歌っているような子供でしたね。
10歳の頃にテレビドラマの出演の話が舞い込み、ぜひ挑戦してみたいと思ったんです。そのときに父から言われたのは「厳しい世界だから、やるなら徹底的にやりなさい」という言葉でした。私にとって生涯忘れられない、「真剣に取り組むこと」の大切さを心に刻みつけてもらった言葉ですね。
よく、小さい頃にデビューした人は、子役から大人への切り替えに苦労するといいます。ちょうどそんな時期、私はアイドル歌手の誘いをいただいてレコードデビューを果たしたのですが、これがさっぱり売れなかった。夢中で大好きなことばかりを追いかけてきた私が、初めて味わった挫折感でしたね。
不遇のアイドル時代が2年程続いた頃、目に飛び込んできたのがミュージカルのオーディションでした。歌と踊りと芝居。自分の大好きなものが凝縮されたミュージカルに「コレだ!」と思ったんです。
「シンデレラ」のオーディションで主役を射止め、稽古に明け暮れる毎日。初めてのことに戸惑うこともありましたが、初日の舞台に立ったときに、今まで自分の知らなかったエネルギーみたいなものが、お腹の底からグワーッと湧き上がってきたんです。私が一番輝ける場所はココなんだと、すべてがはっきり見えたような気がした。初日の舞台の上で「ミュージカル女優になろう!」と決めたんです。それが18歳の時でした。
とは言え、ミュージカルの世界では新人同然の私にとんとん拍子で仕事が舞い込むわけもなく、当分はアルバイトをしながらオーディションを受ける日々でしたね。その頃、たまたま父が赤坂のクラブでピアノを弾いていて、そこで働かせてもらえるようになったんです。生まれて19年目にして初めて父から「ジャズを勉強してみるか」と言われ、手ほどきを受けながらお店でジャズを歌っていました。なかなか仕事もなく、悶々としがちになるところを、ラッキーなことに、バイトをしながらジャズを勉強できたんです。
少しずつミュージカルの仕事が増えてきて2年間ぐらいで辞めてしまいましたが、この時期にジャズの基礎を身につけられたことは、私の財産ですし、本当に感謝しています。人生に無駄な時期はないものだと思いますね。
ミュージカル女優としてまだまだ駆け出しだった23歳の時、人生を大きく変えてくれた作品と出会いました。 それが「レ・ミゼラブル」でした。それまで出会ったミュージカルは、楽しく歌って踊って、というものが多かったんですが、歌詞はすべて台詞である、と演出家のジョン・ケアード氏に叩き込まれたんです。そう、ミュージカルは間違いなく演劇で、すべては芝居の上に成り立たせていかなくてはいけないことを教えてもらったんです。
同時期に井上ひさし先生の「こまつ座」作品に何本か出演させていただいたのも大きかったですね。今まで「洋」を舞台にした作品が多かったので、日本の台詞劇への挑戦で「日本語の美しさ」を知り、芝居を根本から勉強させてもらいました。
2006年に「飢餓海峡」で杉戸八重という娼婦の役を演じるチャンスをいただいたのですが、故・太地喜和子さんの伝説的な代表作への挑戦は、あまりに嬉しい反面、プレッシャーもすごかった。でも、演出家の木村光一先生から「大丈夫。歌穂ちゃんのその明るさを出してくれればいいんだよ」と言っていただき、この作品で役者としての新たな自分と出会うことができたんです。「こんな役、怖くてできない」と思うぐらいの作品の方が自分に大きな何かを残してくれるのかもしれない。結果、毎日身震いするくらい幸せな舞台となり、思いがけなくも大きな賞をいただき...これは私の女優人生のエポックでした。
結局、好きなことをやっているから、どんなに大変なことがあっても苦労にならない。幸せな仕事だなあ、とつくづく思います。
だから、ひとつ舞台が終わるとふと気が抜けて風邪をひいたりするんです。でも、また次の舞台稽古が始まるとグッと体調が良くなる。きっと、私は舞台が無かったら風邪ひきっぱなしなんですよね。(笑)
取材・文/中屋麻依子(方南ぐみ) 撮影/石井和広(TFK)











