- 白井 晃(しらい・あきら)
- 1957年5月21日、京都府生まれ。早稲田大学教育学部卒。1983年から2002年まで劇団「遊◎機械/全自動シアター」を主宰。独自の美学による演出で、読売演劇大賞優秀演出家賞(2001年および2002年)など数々の評価を受ける。現在は演出家として作品を発表する一方、俳優としても舞台、映像で活躍している。
実は、演劇にはそれほど興味がなかったというか、むしろ苦手意識をもっていたんです。
テレビとか映画と比べて、目の前で役者が熱演を繰り広げる生の芝居に気恥ずかしさを感じたせいだと思うんですが、僕が20代だったころは、多くの先進的な演劇が生まれた時代でした。アングラと呼ばれたそれらの芝居は、観客に気恥ずかしさを感じさせるどころか、芝居の中に客席を巻き込んでしまうような強烈なパワーを持っていた。それが演劇に対する考えを改めるきっかけになったんですね。
そして、京都で国立大学の入学を目指しながら学生をしていたある日、京都大学の西部講堂で行われた早稲田大学の演劇研究会の公演を見に行ったんです。シェイクスピアの『真夏の夜の夢』の最後のセリフをモチーフにした『お手をどうぞ―花の褥の夢泥棒―』という芝居でしたが、自分の中で何かを表現したいという気持ちがそれにピタッとつながったんでしょう。初日から2日目、3日目、そして千秋楽と通い続けるうち、「この人たちと一緒に芝居をするぞ」と心の中で決めていました。
もし、この芝居を見に行かなければ、演劇をするために上京するなんて勇気は絶対に出てこなかっただろうと思います。そういう意味でこの芝居を見たことは僕にとって、とても大きな出来事でした。
上京して早稲田大学の演劇研究会に入ってからは、学部の勉強はそっちのけで、文字通り「芝居漬け」の毎日でした。
例えば、1時からの稽古があったとして、「3限目に授業があるので参加できません」なんて言おうものなら、「ふざけんな!」と怒られるんです。大学のサークルといえども、一度足を突っ込んだら生きて帰れないような硬派な雰囲気がありました。
ちなみに演劇研究会は、それ自体がひとつの劇団なのではなく、そこに集まる学生たちがいくつかのアンサンブルを組んで芝居を作っていくんです。僕の1年後輩の鴻上尚史くんの「第三舞台」とか、さらに3年下の安田雅弘くんが主宰した「山の手事情社」などはそうした活動を元にできた劇団です。
僕は当時、「新機劇」というグループに加わっていたんですが、ちょうど4年生になって卒業後の身の振り方を考え始めるころ、演劇の活動に見切りをつけて就職する道を選んだんです。もともとプロになる気持ちはそれほど強かったわけではなく、早稲田に来たのも学生という身分で演劇ができるという大義名分があったからでした。
それでも、何かを表現するということに興味はあって、就職先は新聞社やテレビ局などのマスコミ業界を志望していました。ところが、演劇に夢中で、ろくに勉強もしていなかった僕が受かるはずもなく、ようやく内定をもらったのは電通PRセンター(現・電通パブリックリレーションズ)という会社でした。
結局そこで、5年間のサラリーマン生活をするわけですけど、そこでの仕事はとても面白かったんです。浦安にある大手テーマパークのオープニングの広報担当になったり、六本木ヒルズの開発にも携わったり、末席ながらも大きなプロジェクトを目の当たりにすることができましたからね。
ただ、入社して2年ほどたったころ、学生時代の仲間に誘われて再び演劇活動をはじめてからは、だんだん仕事に身が入らなくなってきた。ラジオCMの宣伝コピーを書いたりする仕事から比べれば、演劇なんてほんの小さなものに過ぎないんですが、クライアントのためではなく、自分たちが本当にやりたいことを追求するという意味では、掛け替えのない満足感があったんですね。
当然、他のメンバーも仕事をもっていましたから、公演は金曜日から日曜日までの3日間で行い、僕は金曜日に有給休暇をとって出演していました。ところがある日、公演の本番に「オーストラリアに行け」という辞令を受け取ったんです。それが、会社辞めて演劇活動に専念することを決意するきっかけになりました。当時の僕は29歳と10カ月で、30歳を目前にした決断でした。
遠回りをしたようにも思えるけど、決して無駄な経験ではなかったですね。現に、「遊◎機械/全自動シアター」を旗揚げした当初から、劇団経営を意識的に考えることができたのは、サラリーマンとしてビジネスの世界の常識に触れたおかげですから。
演劇表現は、よくも悪くも自己満足の部分が大きいと思うんですが、自己満足で終わらせず、より多くの人に届けることに真剣に取り組むこともそれ以上に大事なことなんです。
取材・文/ボブ内藤(方南ぐみ) 撮影/石井和広(TFK)












